江戸時代の金工

江戸時代に入ると、徳川幕府は主要な鉱山を幕府直轄の領地として鉱山開発を行い貨幣制度を整えます。また、などの金属を長崎の出島から輸出し世界有数の鉱山資源国となりました。このように情勢が安定すると武士だけでなく裕福な町人達の生活の中にも金工品が広がるとともに、金工技術も磨かれ多くの優れた品が排出されます。

鋳造では、和鏡、茶釜、水注、筆立、矢立、根付、置物などの生活用具の多くが蝋型で鋳造されます。京都や江戸に集まっていた茶釜職人が地方にも移り住み、その土地土地での茶釜を製作をし、和鏡は、金属の鏡が庶民の生活のに中でも使われるようになったことで、粗悪な鏡が大量に鋳造されたりしています。彫金では、刀装具の装剣金工が中心であったが、将軍家・大名家おかかえの後藤家の「家彫(腰元彫)」に対して町人文化の中から「町彫」生まれ、そこから幕末から明治にかけて片切彫がうまれます。鍛金では、刀身鍛造はもちろん、様々な置物、装飾金具、建築金具にも優れた作品が生まれ、 七宝金具も作られています。

<参考>

  1. 大滝幹夫『日本の美術 第305号 金工-伝統工芸』至文堂、1991年
  2. 村上隆『日本の美術 第443号 金工技術』至文堂、2003年
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