明治時代の金工
明治維新によって封建制度が終わりをむかえ、近代国家へと進む中で様々な改革がおこなわれます。その中でも金工界に大きな衝撃を与えたのが1867年 (明治9年)に発令された廃刀令になります。先の時代より長らく、刀鍛冶や装剣金工の仕事に従事する者は多く、この廃刀令によって多くの職人が仕事を失うことになり、その技術を活かす場を装身具、美術工芸品や生活用品製作へと変えざるを得ませんでした。
明治政府は近代化を進める中で「殖産興業」「輸出貿易振興」を政策とし、国内各地で博覧会などを開催し、1873年(明治6年)ウィーン万国博覧会への参加を皮切りに海外へと進出し、金工品の輸出も活発になり金工界も再活性してゆきます。1885年(明治18年)のニュルンベルグ万国金工博覧会では日本の金工が高い評価を得ています。
また、明治政府は機械化された欧米の金工技術を導入・推進するだけでなく、日本の伝統的な金工の保護・奨励も行い、1889年(明治22年)には国立の美術教育機関として東京美術学校が設置され、初めて組織的な金工技術教育が始まりました。
明治時代の終わりには、欧米でアール・ヌーボーが興り、日本もその影響を受けると同時に、西洋の美術思想が尊重され、輸出品中心の製造から新しい様式の美術工芸品が作られるようになったことで、近代金工へと進んでゆきます。