昭和以後の金工

昭和に入ると京都、大阪、盛岡などで金工団体が結成され、展覧会が開催されるようになり、また1927年(昭和2年)第8回帝国美術院展覧会から美術工芸部門が加わったことによって金工家の著しい活躍がみられるようになります。

そしてこの頃から客の注文を受ける職人ではなく、独自の創作を発表する所謂、作家として展覧会作品の制作をする金工家達もでてきました。やがて時代は戦争へ歩みを進め、1940年(昭和15年)には戦争、軍需拡大には不必要とみなされた贅沢品の製造・販売を禁じる「七・七禁令」が勅令として出され、そのなかには貴金属・装飾品が含まれ、戦争という背景の中、多くの金工家が苦境に立たされました。

戦後は復興のため、国は輸出に重きをおくようになり、工芸も官民一丸となって工芸復興政策がとられました。その中で「公益社団法人 日本工芸協会」が創立され、金工資材の配給や伝統技術の保存が行われました。

また、明治期に設立した東京美術学校が1949年(昭和24年)東京音楽学校と合併され東京芸術大学になり、デザイン性や科学技術を基本とした近代的な教育が行われるようになりました。このころに伝統技術の見直しとともに文化財保護法制が制定され、多くの金工技術が重要無形文化財等に指定されました。

<参考>

  1. 大滝幹夫『日本の美術 第305号 金工-伝統工芸』至文堂、1991年
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